「……ん、か……ん」 誰かが、私の名を呼んでいる。 誰だろう? ひどく懐かしい気がする。 「邵可ちゃん」 琵琶を大事そうに抱えた女性が邵可の前に立つ。 見間違えることはない。 その琵琶は今でこそ弟の黎深のものだが、本当の持ち主は他にいる。 柔らかに笑む女性は、琵琶の持ち主である邵可が殺した大叔母様。 認めた途端、邵可はその場から動けなくなる。 「邵可ちゃん」 紅い唇から漏れ出す言葉は凶器だ。 いつも通りの優しい声で、名を呼ばないで欲しい。 ……溺れてしまいそうになる。 「何故、わたくしを殺したのに、私と同じ名を持つ少女を好いているのですか?」 無垢な目で見上げてくる。 不思議だ。 今では邵可の方が背が高くなっている。 「ねえ、邵可ちゃん」 決して命令口調ではないのに、有無を言わせない響きがある。 無意識に喉が鳴り、唇が乾いていく。 「あ……私は、私は」 答えなければと思っているのに、答えが出ない。 焦れば焦るほど言葉に詰まっていく。 「幸せになれると思っているのですか?」 厳しい言葉なのに、眼差しだけは温かい。 あのときのような憎悪は欠片もなく、慈愛の情だけが浮かんでいる。 「薔君を失っても忘れてしまっていましたか? 邵可ちゃんは幸せになどなれないのですよ」 玉麗大叔母から出た言葉にギクリと体が強張る。 どうして、その名を知っている? 「な、ぜ……」 妻の名を知っている? 呆然と問う邵可に笑みを深くする。 「ずっと、邵可ちゃんのことを見ていましたから」 何でも知っていると残酷な言葉を吐く。 頭を過ぎていくのは、黒狼となって数多の人間を屠ってきたこと。 命令なら女も子どもも老人も関係なく殺してきた。 命乞いを無視し、大地を血の海にした。 「薔君が亡くなったのは邵可ちゃんのせいですよ」 そんなの分かりきっている。 でも、玉麗大叔母に言われるのは誰に言われるよりも辛い。 「うふふ、自分でも分かっているのですね」 楽しげに小首を傾げる様子は、昔の記憶を刺激させられる。 「邵可ちゃんは死神ですよ。ほら、よく見てください。貴方の手は何色ですか?」 言われるままに両手を見る。 紅と呼べないほど濁ったドス黒い色が手に染み込んでいる。 「その手で、幸せを掴めますか?」 何をしようともこの色は落ちそうにもない。 こんな手で幸せなど掴めるはずもない。 後ろを振り返れば屍の山。 下を向けば足に纏わりつく無数の手たち。 前には何もなく、上は血の雨が滴り落ちる。 指摘される前から分かっていた。 分かっていたはずだった。 「邵可ちゃん」 懐かしい玉麗大叔母様に会えたのに、嬉しさよりも苦痛が上回る。 何がいけなかったのだろうか。 この手を血に染めなければ良かったのかと言うのか? いいや、そんなことはない。 そんな選択肢などなかった。 「いいえ」 思考を読んだように否定される。 「血に染めなければ良かったのですよ」 眉を寄せ、心から同情するように邵可を見る。 答えが知りたくて、玉麗大叔母の言葉を待つ。 「邵可ちゃんの全てを知っても、わたくしと同じ名の少女は貴方を受け入れてくれますか?」 歌うような玉麗大叔母の言葉に琵琶の音が被さる。 気まぐれに弦を義甲で弾く。 「例え受け入れたとしても、邵可ちゃんのせいで命を落とすでしょう」 大叔母と同じ名を持つ玉麗が自分のせいで死ぬ。 考えるよりも先に涙が零れ落ちた。 頬を伝う涙を見て、玉麗大叔母は憐憫の目を向ける。 「お前は幸せになどなれないのですよ」 懐かしい大好きな音色。 戯れていただけの音がいつの間にか曲となり、心に溶けて染みこんでくる。 邵可とも彼女の妹とも違う人殺しではない音。 優しく人の心に入ってきて、知らずに傷を癒していく。 母親のように無条件に包み込み、甘く、何をしても許してくれるだろう錯角を起こさせる。 これこそが、星輝月雫と手にした玉麗大叔母の演奏。 だが、その演奏は今の邵可にとっては残酷な刃となり苦しめる。 大叔母の言う通り、邵可は幸せになどなれない。 むしろ、傍にいることで不幸にしてしまうかもしれない。 急に両腕が重くなる。 後ろに築き上げられた屍がさらに手を伸ばし、邵可を底なしの闇に引きずりいれようとする。 「玉麗のことは諦めなさい。お前とでは幸せになれるはずもないでしょう。それとも、その中に一緒に引きずり込んでも良いというのですか?」 暗い、暗い闇の中。 見えるのは屍と濁った血の色だけ。 こんな薄暗い中に玉麗を引きずり込むのか? ゾクリとした。 駄目だ! 激しく拒絶する。 こんなところに一緒にいていいわけがない。 このままではいけない。 これ以上、好きになっては駄目だ。 唐突に目が覚めた。 目に入った見慣れた天井に、今までが夢であったことを知る。 「……玉麗大叔母様」 現実でも泣いていたのか、顔がひきつく。 大好きだった玉麗大叔母様。 殺してしまってから初めて見たのに、あんな夢とは笑えてくる。 警告なのかもしれない。 これ以上、玉麗を好きになってはいけないという。 前 始 次 2008.12.2 |