幸せすぎて忘れていた。

 王が倒れ、王位争いのせいでたくさんの人々が死ぬことを。

 でも、でも、まさかこんなことになるなんて思わなかった。

 原作であの子も秀麗も静蘭も無事だったから、安心していたのに。

 よく考えれば分かることだ。

 も私も原作にはいなかった。

 無事でいられる保障なんてなかったんだ。

 王が倒れる半年前からの具合は芳しくなかった。

 邵可よりも四歳年上だけど、まだ三十四歳なんだよ。

 働きすぎだったのかな?

 理由なんて分からない。

 私は医者じゃないし、この世界の医療の水準は低いから。

 辛いはずなのに、一言も弱音を吐かなかった。

 本当に自分が情けなくて歯がゆい。

 もっと私がしっかりしていれば、王位争いで貴陽が荒れたときの対策が練れていたはず。

 できたのに、しなかった。

 私はやるべきことを投げ出したんだ。

 を見捨てたんだ。

 グッと唇を噛み締める。

 これほど自分が憎く思ったのは初めてだ。

 涙が次から次へと溢れ出てくる。

 何もやる気が起きず、自分の室から出れない。

「ねえ」

 秀麗も静蘭もあの子も声をかけてくれるが、私はまともに答えられない。

「あの」

 耳を塞ぎ、布団の中で丸まる。

「そのね」

 三度聞こえてきた声にようやく布団から顔を出す。

 いい加減、無視するわけにもいかない。

「……何でしょうか?」

 久しぶりに出した声は掠れ、自分の声はこんなだったのかだなんて驚いた。

「秀麗がね、泣いてるんだ」

 ポツリと呟くあの子の意図が掴めず、私は黙り込む。

 だって、王位争いのせいで、秀麗の親しい人たちも数多く亡くなっている。

 秀麗が泣かない日なんてないだろう。

 時折、聞こえてくる二胡の音に悲しみは増す。

 今日も誰かが死んだんだって。

「前に言ったよね? 秀麗のために早く元気になってって」

 私がこの世界に戻ってきたとき、始めてあの子と交わした会話だ。

「私はね、私たちは君のことを家族だと思ってるよ。のことは哀しいことだけど、今は君が一人でいることが心配なんだ」

 一人でいるのが心配?

「秀麗は君が好きだ。毎日、君のためにご飯を室の前に置いている。そのままのご飯を見て哀しそうに体を震わせるんだ。また、駄目だったって自分を責めるんだよ」

……知っている。

 毎日室の前にご飯を置かれてるけど、私は食べる気力もなくて手をつけなかった。

「静蘭だって君が好きなんだよ。ご飯に手をつけないから、倒れてるんじゃないかって、入れないけど毎日君の室を見に行っている。微かに動く気配を感じて、ホッと胸を撫で下ろしてるんだよ」

 静蘭も来てたんだ。

 あの子や秀麗大事で私のことなんか気にしてないと思っていた。

「私だって君が好きなんだよ」

 ビクリと体が震える。

「何度この扉を壊そうかと思ったことか」

 閉まっている戸を見た。

 黒狼であるあの子なら容易く壊せるだろうし、壊さなくても簡単に室に進入できそうだ。

「でもね、しなかった。君なら必ず自分から出てくれるって思ったから」

 私が自分から?

「君は誰よりも強い」

 いいえ、私は誰よりも弱い。

「優しくて人のことを労われる心の広い持ち主だ」

 違う。

 だって、私は未だに許せないでいる。

 心の狭い人間なんだ。

「いつだって他人のことを思い、心を癒してくれる」

 そんな大そうな人じゃないよ!

 いつも殺されないかと怯えているちっぽけな人間なんだよ。

「秀麗も私も君に救われた。私たちにとって、君はなくてはならない存在なんだ」

 私は、私は……。

 枯れ果てていたはずの涙が溢れてくる。

のことは君のせいじゃないよ。私の責任なんだ」

 キッパリ言い切ったあの子に私は叫んだ。

「違います! さんは私のせいで」

「違うよ。はね、私の叔母なんだ」

 黎深から父親同士が兄弟だって聞いた。

 それなら、は叔母に当たる。

「本家のゴタゴタに巻き込まれるのを避けるため、紅州を出て貴陽に来た。そのとき、かつて紅家家人として働いていた誼で、私の元で働いてくれることになったんだ」

 紅家から手配された家人じゃなかったんだ。

「子どもがいるとはいえ、ならここじゃなくても働けていけた。もっと裕福な家でも良かったのに、この邸に来てくれたんだ」

 そうだね。

 なら他の家でも雇ってくれただろう。

 どうして、あえて紅家であるあの子の邸にしたんだろう?

「私がね、心配だったんだって。直系長男であり、追い出されるように貴陽に来た甥が、やっていけるのかって」

 泣きそうな声。

 そのときのことを思い出しているのかもしれない。

「ねえ。君はのことを『お母さん』と呼べなかったことを後悔してるかい?」

 確信を衝いてきた。

 そう、私が一番後悔しているのは、を『お母さん』と呼べなかったことだ。

 彼女を母親だと認められなかった。

 私が『さん』と呼ぶたびに、苦しそうに寄せられた眉に気づいていたが、気づかない振りをして母と呼ばなかった。

 私にとって母でなくても、にとって私は大切な子どもだったんだ。

 なのに、一度も呼ばなかった。

「私もね、彼女のことを『叔母様』って呼べなかったんだよ」

 それは仕方のないことだ。

 血縁でもないし、は良いところのお嬢様ではなく、あの子達の家の家人なんだ。

「紅家はね、に何もしてあげなかった。むしろ、彼女から奪っていった。私は知っていて何もしなかったんだよ」

 見殺しにした、とあの子の声が沈んでいく。

「だから、が死んだのは私の責任なんだよ。君のせいじゃないんだ」

 だから、出ておいで、と優しい声で言う。

 やっぱり、あの子も変わっていない。

 私の罪を背負おって軽くしようだなんて、優しすぎて苦しいよ。

「……一度でいいから、私のことを名前で呼んでくれないかい? 旦那様じゃなくて、君は私の従兄妹なんだから」

 従兄妹でも私は家人。

 邸の主である主人を名前でなんか呼べるわけがない。

「お願いだ。今日だけでいいから」

 だから、だから、とあの子と私を隔てている扉に縋りつく。

 ずるい子だ。

 そんなところも変わらない。

 私は目蓋を閉じ、大きく息を吸う。

 ねえ、玉環ちゃん。

 今日だけ、許してくれるよね?

 恐怖と愛しさに体を震わせ、自分を両手で抱きしめながら口を開いた。

「邵可ちゃ……邵可兄様」

 スルリと出てきたちゃんを慌てて兄様と言い直す。

「……

 何とも言い現せない感情の詰まった声で私の名を呼ぶ。

「ごめんね、

 そっと戸に触れた。

 見なくても分かる。

 あの子が泣いている。

 震える手を叱咤して、力を込めて開ける。

 何日も室に篭りきりで、寝付けなく顔色が悪く、涙で顔もグチャグチャになっているけど、今は気にしていられない。

「邵可兄様。もう、ご自分を責めないで下さい」



 出てきた私に信じられないと言った表情で目を見開いてから、頬を濡らしたまま抱きついてくる。

 触れられるのはまだ怖いけど、緊張したままぎこちなく頭を撫でて、甘やかしてあげる。

、私は……」



  

2008.4.19
修正2008.7.14