家人となって助かったことがある。 あの子の名前を呼ばなくて済むことだ。 静蘭やと同じように旦那様と呼べばいい。 「、二胡」 薔君が亡くなってから、秀麗は私に母の音を求めるようにねだってくる。 お世辞にも上手とはいえない音色を嬉しそうに聞く姿を見ていると、切なくなり、もっと二胡の練習をしていればよかったと思わせる。 琵琶ならマシなのにとは思うのだが、残念ながらこの邸に琵琶がない。 本で読んだから分かっているけど、本当にあの子は音を封印したようだ。 ……勿体無い。 あの子の音を思い出しかけて頭を横に振る。 最後に聞いた音が印象深過ぎて、その前の音が思い出せない。 唇を噛み締め、二胡を弾く。 暫く弾いていると寝息が聞こえてきた。 顔は全く似ていないが、私の音を聞いて安心しきったように寝てしまうところは妹に似ている。 可愛いなぁと笑っていると、いつの間に来たのか、が眠っている秀麗の体に布を被せる。 「さん」 この人が母だという実感がないので呼べるわけなく、名前にさん付けで落ち着いた。 は少し寂しそうな表情をするけど、できないものは仕方ない。 「お嬢様、寝ちゃったのね」 最近、夜になかなか眠れないらしいから。 ポツリと呟いた言葉に胸が痛む。 沈んでいく私の気持ちに気づいたのか、は急いで話題変換していく。 「それにしても、驚いたわ。、随分上手くなったのね」 の言葉に首を傾げる。 「亡くなった奥様はね、二胡の達人でそれは美しい音を奏でたものよ。もね、少し手ほどきを受けたのよ」 ああ、だからあまり弾いてないはずなのに、手がぎこちないとはいえ動いたのか。 琵琶ほどではないけど、嗜みとして前世で習っていた。 「さ、。そろそろ夕飯の仕込を始めましょう」 「はい」 菜ができあがり、食卓に運んでいく。 静蘭があの子に声をかけたのだが、今日も現れない。 「。悪いけど、旦那様にご飯を届けてくれない?」 ドキリと心臓が跳ね上がる。 「あ、私が?」 不安そうな声を上げる私にが頷く。 「ええ。まだ、旦那様にお礼を言ってないでしょ?」 医者代を払ってくれたのはあの子だ。 それなのに、私はお礼の一言も言っていない。 怖くて怖くて、話しかけるどころか室にさえ近づくことができなかったのだ。 「ほら、お願いね」 がお盆を押し付けてくる。 仕方なく受け取り、重い足取りであの子の室に向かう。 ああ、嫌だ嫌だ。 どうにか回避できないかと考えても、何も良い方法は浮かばない。 軽く現実逃避していると、室に着いてしまった。 深呼吸をしてから一つ咳払い。 「失礼します、旦那様。ご飯をお持ちいたしました」 戸に向かって話す。 「……そこにおいておいてくれ」 暗い声が返ってくる。 久しぶりのあの子の声に、金縛りにあったようにその場から動けなくなってしまう。 に言われた通り、お礼を言わなければ。 口を開こうとしても音が出てこない。 「どうしたんだい? 私に構わず、そこに」 「……りがと、ございまし、た。お医者様、呼んで頂き」 ガチガチと歯が噛みあわない。 でも、私は言わなければならない。 「お嬢、様のため、早く元気、なってくださ」 母がいなくなって父が塞ぎこみ、家族に会えない秀麗は寂しがっている。 私や静蘭、がいても所詮は他人であり、仕えている使用人。 家族の代わりになんてならない。 泣いてもいい、悲しんでもいい。 だけど、あの子は一人なんかじゃない。 薔君の忘れ形見である娘の秀麗がいる。 「そう、だね。私には秀麗がいる」 ガラリと戸が開いた。 目の下に隈ができ、青白くやつれていた。 「ありがとう。……」 すんなり出てきた言葉とは反対に、名前は戸惑いがちに呼ばれる。 戸が開くとは思っていなかった私は軽いパニック状態になった。 立ち尽くす私をあの子は抱きしめてくる。 「気づかせてくれてありがとう」 ひぃぃっ! 辛うじて悲鳴を上げずに済んだが、危うく気絶しそうになった。 やっぱり、怖いよーー!! 前 始 次 2008.1.16 |