黄家で働いて、もうすぐ一ヵ月。

 この仕事にも大分慣れてきた。

 初めは簡単な雑用をしていたはずなのだが、いつの間にやら帳簿をつけている。

 私なんかが黄家の財政を担当していていいのだろうか?

……黄尚書が文句を言ってこないからいいんだろうけど。

 今日はいつもに増して、使用人たちがキリキリと動いている。

 何でかっと言うと公休日。

 この屋敷の主人がいるからさー。

 コポコポとお茶を入れて、素敵仮面様に差し出す使用人さん。

 どうせなら、私の分も入れてくんないかなー、って眺めてると。

 ゴッ。

「あっ!」

 バッシャーン。

「…………」

 寒くなる空気に瞬きしてじっくりと見てみると、使用人が黄尚書にお茶をぶっかけていた。

 仮面をつけていても分かるこの怒り。

 怖っ!

 前からあの人ドジッ娘☆とか思ってたけど、今回はさすがに笑えない。

「も、申し訳ございません」

 ペコペコと顔面蒼白になりながらも謝るけど、どうだろうなぁー。

 あの子とは仲いいし、フォロー入れとくか。

「お怪我はございませんか? 君はこれを片付けて」

 黄尚書に顔を向けてから、湯呑みを片付けさせて部屋から出す。

 懐から常備している手巾を取り出して、パッパと黄尚書の髪を拭っていく。

 あー、仮面の中にも入ってそう。

「お顔は自分で拭いてくださいね」

 普段から屋敷でも仮面を被っているからね。

 素顔見られたくないんでしょーと手渡す。

――って、おい!

 私の前で仮面外しちゃったよ、この人。

 いーのかよ、と突っ込みを入れながらも、心の中では親指をグッと立てている。

 よし、グッジョーブ!

 アホいコトを叫び(心の中で)ながら、現実がちょっとヤバイ。

 鼻血出そうなほどの美人さん。

 こんな人、本当に世の中にいるもんだな。

 な〜んて、昇天寸前だよ!

「貸せ」

 うをっ、声まで美しいよ。

「どうぞ」

 震えそうになりながらも、どうにか手巾を渡すことに成功。

 黄尚書は受け取った手巾で顔を拭う。

 それだけで絵になる。

 ああ、筆と紙があったら今すぐにでも描きたい!

 でも、満足なんかできないんだろーなぁ。

 そもそも、私は人物画は苦手だし、なおさらへこみそう。

 師(せんせい)でも無理なのかな?

 ため息混じりに視線を下に向けて……。

「ぎゃ――――!!」

 思わずあまりの惨劇に悲鳴を上げる。

 どうして気づかなかったんだ、自分。

 後悔しても遅い。

 黄尚書は読書をしていた。

 そのまま茶なんかかかれば、本なんか濡れるに決まってんじゃん!

 この時代、手書きで墨だから、水なんてアウトだ。

 何の本だか知らんが、貴重な本ぐわー。

 がっくりと肩を落とす私に、黄尚書は眉を寄せ。

「いきなり叫んでどう……」

 言葉が途切れる。

 あは、気づきましたね。

 本が濡れていることに。

 そろそろと手を伸ばしてページを開いてみるが。

「読めませんね」

 字が滲んでいるどころか、ページがくっついたりもしている。

 頑張れば読めるかもしれないが、ところどころ読めないところも出てくるしダメだろう。

 黄尚書はショックのあまり魂が抜けたように呆(ほう)けてる。

「し、新作が……」

 ご愁傷様、まだ読んでないやつだったんだね。

「最後の一冊が……」

 うわっ、かっわいそー。

 ついてないねぇ。

「これ、誰の本なんですか?」

 私も本が好きだし、持ってるやつかもしれない。

 そしたら貸してあげよう。

だ」

 美しい唇から出た言葉に、思わずふきだした。

 今、この人なんて言った?

 聞き間違えじゃなけりゃ、って。

 一呼吸落ち着かせて、平常心平常心。

って言いましたか?」

 力無く頷く。

 聞き間違えじゃない。

「……題名は『落ちゆく記憶』じゃないですか?」

「な、知ってるのか?!」

 くわっと目を見開き、詰め寄ってくる。

 美人さんに言い寄られるのは好きだけど、首が絞まって苦しい。

「い、家にあります」

 ギブギブ!と腕を叩くと、気づいて外してくれた。

 と、いうか家にあるって聞いてかな?

 ふう、危うく死ぬところだった。

「原本なんで失くさないでくださいね」

「ああ。……原本だと?」

 僅かに低くなる声。

 砕けそうになる腰を気合でなんとかして頷く。

「私がそのです」

 ぶっちゃけます。

 それ、貴陽に来てすぐ書いたやつです。

 黄尚書が読者なんて嬉しいなー。

 つ〜よりも、こそばゆい感じ。

「お前がだと?『散りゆく季節』『誰がために流す涙』『狂い咲き』を書いた……書かれた」

「ハ、ハイ」

 すごいよ、言葉遣い直されちゃったよ。

 しかも、『散りゆく季節』って処女作だし。

 コホン、と咳をしてから私を見る。

「もしよろしければサインをください。その、できれば何か言葉でも添えて、私の名を書いていただければ光栄です」

 あ、目がマジだ。

 自分が仕えてるとか抜きにして、この状況はマズイです。

 自分、美人には弱いですから、断れるわけありません。

「黄奇人でよろしいですか?」

「黄鳳珠でお願いします」

 ちゃっかり本名ですかい。

 家に帰ったらさっそくやらないと、な。



2006.10.9