目の前の建物を食い入るように見入る。

 建物には『日本棋院会館』と書かれている。

 行ってみたい。

 疼く体を理性が止める。

――もう、辞めたんだ。

 辞めた。

 その言葉にズキリと胸が痛む。

 未練がましいと唇を噛み、棋院に背中を向ける。

くん?」

 名を呼ばれて振り返ると奈瀬がいた。

「あ、やっぱり、くんだ」

 奈瀬はを親友の弟だと分かったときから、名前で呼ぶようになった。

 同じ苗字だから紛らわしいのもある。

 走り寄ってくる奈瀬に軽く頭を下げる。

「こんにちは、奈瀬さん」

「こんにちは、どうしたの? こんなとこで」

 奈瀬が不思議がるのも無理はない。

 はこの場所に来ることを避けていたし、家から近いという距離ではない。

 考えあぐねたは、逆に奈瀬に質問した。

「奈瀬さんこそ、どうしてここにいるのですか?」

 の家から近くないということは、奈瀬の家からとも言える。

 わざわざこんなところにいる理由が分からない。

「私は、その……な、習い事があって……」

 面白いほど目が泳いでいる。

 嘘なのだろうか?

 小首を傾げて、聞いてみる。

「どのような習い事ですか?」

「……碁」

 ポツリと小さく零す。

「ああ、碁ですか。もしかして、院生なんですか?」

 奈瀬の実力は知らないが、本屋で詰碁集を譲ったこともあり、ある程度は予測がつく。

 そのときから碁をやるのかと思っていたのだが、目の前の建物を前にして答えは一つしかないだろう。

 先ほどまでが見入っていた建物の名は『日本棋院会館』。

 習い事……その口ぶりからして、まだプロにはなっていない。

 それならば、プロを目指す院生に十中八九間違いない。

「え?」

 ポカンと口を上げて、驚いたようにを見上げる奈瀬。

 囲碁はマイナーだし、まさか『院生』という言葉を知っているとは思っていなかったようだ。

 フッと口元を綻ばせ、ヒントを口に出す。

「本屋で会ったときに、奈瀬さんは詰碁集を探してました。そのときから、碁を打つ人だと思ってました」

 詰碁集を手にするということは、碁を嗜むということ。

 それならば、『院生』という言葉を知っていてもおかしくない。

「あ! そっか、何だ、くんもやるのかぁ」

 納得したように頷く。

「ね、くんは……」

「そう言えば、時間平気なんですか?」

「え? 時間?」

 カバンから携帯を出し、一瞬固まる。

「や、やばい。それじゃあ、またね」

「はい、また」

 慌てて走り、日本棋院会館へと入っていく奈瀬。

 後ろ姿が見えなくなるまで見送り、緩む頬に首を傾げる。

 奈瀬がいなくなった今、目に入るのは日本棋院会館。

 なのに、なぜか先ほど感じた痛みは消えていた。

 理由を考えてみると、浮かぶのは奈瀬の顔。

 彼女に会うと、いつも幸せな気分になる。

 原因は分からないが、胸の中がいっぱいで満たされている感じがする。

 再度首を傾げ、今日はもう家に帰ることにする。

 何だか、無性に碁がしたくてたまらない。

 今なら名人にすら勝てる。

 そんな気分だ。





 その気分通り、今日の碁は稀に見るほど見事な碁が打てた。





2007.3.15