囲碁を禁止されたが、密かに続けている。

 世の中は便利なもので、ネットで碁ができる時代だ。

 それも国内だけでなく、世界中の人たちとだ。

 朝学校へ行き、夕方帰ってから晩飯を食べるまでやる。

 もちろん、食時を姉としてから少しの間テレビを見て、風呂に入った後もだ。

 睡眠時間は二、三時間しかないが、元々それでも持つ方。

 叔母には悪いが毎日充実した日々を過ごしている。

 欲を言えば、碁盤で人と向き合って打ちたい。

 月に一度、碁会場で打ってはいるが物足りない。

 それに、家に囲碁関係のものを置けないのもネックだ。

 詰碁集や定石本。

 買ったはいいが、家に置けないので学校のロッカーに置いている。

 今日も楽しみにしていた棋士の詰碁集の発売日だ。

 朝にでも買いに行きたかったが、学校に行かなきゃと我慢して放課後まで待っていた。

 がやって来た本屋は、小さいながら囲碁関係の本が豊富にある。

 個人経営みたいなので、店主の趣味だろう。

 初めてこの本屋に見つけたときから、のお気に入りの場所になっている。

「塔矢先生の、は……」

 手塚、土井、冬里……塔矢。

 目的のものを見つけ、手を伸ばすと。

「あ!」

 後方から聞き覚えのある声が聞こえた。

 振り向くと、数日前に男に絡まれていた少女がいた。

 眉を下げ、残念そうにの手にある本を見つめている。

 悔しそうに肩を上げてから、長いため息を吐く。

 その姿はようやく見つけたのに、と言っている。

 可愛い人だな。

 は苦笑しながら、本を少女に差し出す。

「どうぞ」

「え?」

 驚いたように顔を上げる少女と目が合う。

 くりっとした大きな目がさらに大きくなり、口も大きく開く。

 どうやら少女もに気づいたらしい。

「あの時の!」

 自分を指差す少女にペコリと頭を下げる。

「はい、お久しぶりです」

「あ、お久しぶりです。えっと、これ、譲ってもらっちゃっていーんですか?」

「はい。自分に遠慮せずにどうぞ」

「やたっ! ありがとうございます」

「どういたしまして」

 喜色を浮かべる少女につられても顔がほころんでいく。

 さっさと手に取り、レジに行かなくてよかった。

 そんなことをしていれば、今頃彼女は落ち込みながら店を後にしていただろう。

 この可愛らしい顔が曇るのは嫌だ。

「それじゃあ、失礼します」

 礼をして立ち去ろうとしたの袖を少女が止める。

「あの、私、奈瀬明日美って言います」

「自分はを言います」

?」

 ぴくりと奈瀬の眉が寄せられる。

「何か?」

 首を傾げるに、奈瀬は慌てて首を振る。

「い、いえ。本当にありがとうございました」

「では、また会えたらいいですね。さようなら、奈瀬さん」

 口の中で甘く広がる彼女の名前。

 の頬は自然と緩んでいく。

『奈瀬明日美』さん。

 それが彼女の名前。

 あのとき、名前を聞けなくて後悔した。

 にっこりと笑う奈瀬は、の夢の中に何度も現れたからだ。

 偶然と再会する奈瀬に名前を聞くのだが、彼女が答えると同時に目が覚める。

「さよなら、さん」

 返してくれる奈瀬に、音には出さずにもう一度言う。

「さようなら、奈瀬明日美さん」

 今日は何だが良い日だ。

 奈瀬と会えて名前を聞くことができた。

 新刊の詰碁集は買えなかったが、足取り軽く帰宅する。

 珍しく嬉しそうな表情のに、姉が気づいてニヤニヤと笑う。





 が奈瀬への思いを自覚するのは、もう少し先のことになる。





2006.12.25